真打昇進試験と⁉紆余曲折あった歴史の流れを簡単に振り返る!

落語雑学
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落語の“昇進”は落語会の長い歴史の中でいつも火種になり、歴史の変革がおきる起点でした。落語協会では、歴代の会長がどんな基準で昇進させるか決めていました。

だから昭和の名人「六代目三遊亭圓生」は実力により昇進させるは派、柳家小さんはある程度年功序列(入門15年目を目安)で決める派。

その方針の対立が揉めにもめ、三遊亭圓生は落語協会から脱退!

その後、落語協会は真打昇進試験を打ち出します。

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紆余曲折!真打昇進に関してのいざこざの歴史

喧嘩3

真打昇進は落語家人生において一大イベントで一大事。何年目でなれるか、後輩に先を越されたなど紆余曲折。

ま、揉めますよね。そこで歴史の流れを解説。

【1978年】落語協会分裂騒動

実力の圓生vs温情の小さん

7年間落語協会の会長を努めた三遊亭圓生。彼が真打昇進させる条件は『実力主義』。そのため、真打になれない二ツ目が40名ほどいたと言われています。

圓生の後をうけて、会長になった柳家小さんはこの事態を憂慮。20人ほどの二ツ目を真打にすることを提案する。

これが気に入らなかった圓生は文句をいったが、他の理事の賛成もあって可決。しかし、どうしても腹の虫がおさまらない圓生は賛成理事の解任と立川談志、古今亭志ん朝など実力派を理事にいれろと提案。

もちろん通らず結局、三遊亭圓生は落語協会を脱退することに。

1978年5月24日に圓生は落語協会を脱会して「落語三遊協会」の設立を発表。

初めは立川談志もついてくると思ったが、自分の一門と古今亭志ん朝などしかついてこず、結局翌年の圓生の急死後は、落語協会に出戻る派と出戻らない派に分かれる。

出戻らない人たちがつくったのが現在の「五代目三遊亭圓楽一門会」。

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【1980年】真打昇進試験開始

池袋演芸場

●真打昇進試験は茨の道

分裂騒動後の反省から落語協会が1980年10月2日に新制度「真打昇進試験」を開始!

昇進に関して揉め、分裂騒動まで起こしてしまったので、この事態を収拾するためにも真打昇進試験を実施。初めての落語協会主催による第一回真打昇進試験が開催されました。

主な真打昇進試験

  • 1980年11月に第1回真打昇進試験を実施。16名受験・11名合格。
  • 1981年5月に第2回真打昇進試験を実施。7名受験・5名合格。
  • 1982年5月に真打昇進試験がマイナーチェンジし、真打昇進”認定”試験となって第一回から仕切り直し。
  • 1983年10月に第3回真打昇進認定試験実施。6名受験、合格者なし。弟子が二人不合格だったことに立川談志激怒で落語協会脱退。
  • 1987年6月に真打昇進認定試験の廃止を決定。

▶六代目三遊亭圓生「夏の医者/庖丁/佐々木政談/百川/文七元結」昭和35・54年

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1980年「第一回真打昇進試験」

・試験場/池袋演芸場
・合格者/五街道雲助、柳家さん喬など

20名が受験するはずでしたが4名がボイコット等で受験せず、16名が受験しました。持ち時間はひとり二十分ほどで一つの演目を演じ、それを協会側の人間が評価するという形。試験として行われたので笑いもないピリピリした雰囲気だったという。

ちなみに第二回真打昇進試験も行われた後、仕切り直しで真打昇進試験→真打認定試験に変更。第一回からやり直します。

第二回真打認定試験の前に単独で「柳家権太楼」が試験をうけ、イレギュラーで18名抜きの抜擢真打で昇進。

▶五街道雲助の「文七元結」CD

1983年「第三回真打認定試験」

立川談志の弟子の立川談四楼と立川小談志が不合格になり、その基準の不透明さに怒り、立川談志が落語協会から脱退。落語立川流を設立。

▶波紋宣告された立川談四楼の内幕本「談志が死んだ」

1987年「真打昇進認定試験廃止決定」

その後も色々紆余曲折あり続いていましたが、1987年に当時親の七光りとして落語家の評価が低かった「林家こぶ平」が合格し、志ん朝の弟子「古今亭右朝」不合格となり波紋を呼んだこともあり、結局廃止に。

その後、落語協会の真打昇進試験は廃止されましたが、「立川流」は今でもその真打昇進試験にあたるものが残っています。

やっぱりこういう出世問題は揉めますよね。

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